大判例

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大津地方裁判所 平成5年(ワ)232号 判決

原告

甲山太郎

甲山一夫

甲村春子

右三名訴訟代理人弁護士

安保嘉博

鍔田宜宏

安保千秋

被告

乙川一郎

右訴訟代理人弁護士

野玉三郎

主文

一  被告は、原告甲山太郎に対し、金一九四六万三五一九円及びこれに対する平成五年五月一九日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告甲山一夫及び同甲村春子それぞれに対し、金九七三万一七六〇円及びこれに対する平成五年五月一九日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用はこれを一〇分し、その四を原告らの、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求の趣旨

一  被告は、原告甲山太郎に対し、金二九七八万四八一五円及びこれに対する平成三年八月二一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告甲山一夫及び同甲村春子それぞれに対し、金一四八九万二四〇九円及びこれに対する平成三年八月二一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  仮執行宣言

第二  事案の概要

一  本件は、肩こり等の治療のため、被告から、首筋にカシロカイン(麻酔薬)、ノイロトロピン(神経痛薬)、ヌトラーゼ(ビタミン剤)の混合液の局所浸潤麻酔注射を受けた訴外甲山夏子(以下「亡夏子」という。)が、注射直後に意識喪失、心肺機能の停止等をきたし、そのまま植物状態に陥って二二日後に死亡したのは、被告の注射の施術上の過失及び救命措置義務違反の過失によるものであるとして、亡夏子の相続人である原告らが、被告に対して、診療契約上の債務不履行に基づき損害賠償を請求した事案である。

二  争いのない事実

1  亡夏子は、昭和七年一一月六日生の女性であり、死亡時(五八歳)まで、主婦として生活を営んでいた。

2  原告甲山太郎は、亡夏子の配偶者であり、原告甲山一夫及び同甲村春子は、いずれも亡夏子の子である。

3  被告は、肩書地において、内科、胃腸器科、循環器科の看板を掲げて医院を経営しているものである。

4  亡夏子は、平成三年七月二九日、肩こり等の治療のため、被告医院を訪れ、同日、被告との間で、肩こり等の治療を行う治療契約を結び、被告から治療を受けた。

5  被告は、同日午後五時三〇分過ぎころから、亡夏子を診察し、肩凝り等の治療のため、亡夏子の右耳後ろの首筋に、カシロカイン(麻酔薬)、ノイロトロピン(神経痛薬)、ヌトラーゼ(ビタミン剤)の混合液を注射した(以下「本件注射」という。)。

6  亡夏子は、同日午後六時一四分に済生会滋賀県病院(以下「済生会病院」という。)に搬送されたが、心臓、肺臓がすでに停止しており、同病院での治療の結果、蘇生はしたが脳死状態となっており、同年八月二〇日に死亡した(以下「本件事故」という。)。

三  争点

1  亡夏子が心肺停止に陥った原因(くも膜下腔等への局所麻酔剤注入によるか、それともアナフィラキシーショックによるか。)

(原告らの主張)

被告は、本件注射において、注射針を脊椎の椎弓板(横突起)に届くまで深く刺入し、その上で上下左右に方向を変えて刺入しているが、この手技の際に、神経鞘あるいは髄腔の中に注射液を注入したものであり、その結果、キシロカイン(局所麻酔剤)を含む薬液が、くも膜下腔に流入し、頭側に拡散して横隔膜神経に影響を与え、更に意識の維持に寄与している脳幹部で、かつ呼吸、循環中枢がある延髄が麻酔されたため、急速に呼吸停止、意識消失、ついで心停止が起こったものである。

注射針が椎弓板に当たる程の深さにおいて内側に向かうと、針先が椎弓間孔から脊椎管内に刺入され、くも膜下腔、脊髄あるいは神経根を穿刺する可能性がある。あるいは、注射針が外側を向くと、針先は椎間孔の位置に到達し、その部を走行する脊髄神経根を穿刺し、このとき薬液が神経鞘内に注入される可能性がある。また、注射針の最初の刺入時に、針が頸椎の後突起ではなく、前突起に当たった可能性があり、この場合には、針先は神経根を通り過ぎ、その前方まで刺入されているから、その後針を引き抜きながら薬液を注入した際、そこには、既に脊髄神経が出てきているから、その神経鞘に薬液が入った可能性がある。いずれにせよ、被告の本件注射の手技において、薬液が神経鞘あるいは髄腔内に注入されたものである。

(被告の主張)

(一) 亡夏子が心肺停止に陥ったのは、本件注射により薬剤が体内に入ったことによるアナフィラキシーショックによるものであり、このアナフィラキシーショックは回避することは不可能である。

アナフィラキシー反応は、過敏性のある人に、対応するアレルゲンが注射、摂取、接触、刺傷などで体内に入ると、ほとんど直後に、全身のじん麻疹、血管浮腫、呼吸困難、動悸などが起き、時に血圧低下、窒息、意識障害などのショック症状を起こすもので、ショック症状の結果、稀に死に至ることもあるとされている。

原因物質の一つに薬剤があり、ほとんどの薬剤が原因となりうるところ、ペニシリン系薬剤や他の抗生物質、造影剤等でテスト液のあるものは皮膚反応を行い過敏のないことを確認できるが、本件注射において使用した薬剤については、テスト液がないから、亡夏子が過敏性であるか否かは注射前に確かめようがなく、本件事故におけるアナフィラキシーショックは予防のしようがなかった。

(二) 被告が、本件注射において、亡夏子の神経あるいは髄腔に注射針を刺入することはありえない。

被告が注射針を刺入した時、最初に注射針が当たったのは、横突起の後結節あるいは椎弓板右側端である。針が骨である後結節を刺し通して前結節に当たるということはない上、針が骨に当たったとき、五センチメートルの長さの針を全部刺入しておらず、手元に一ないし1.5センチメートルは針が余っていたのであるから、針は前結節まで刺し通しておらず、脊髄神経を刺すことはありえない。

被告は、針が骨に当たった時点ですぐに二ないし三ミリメートル針を引き戻し、そこで吸引して血液の逆流入がないことを確かめてから、0.5ないし一ミリリットルの薬液を注入し、そのあと同部位で外側や上・下に針の向きを変えて薬液の注入をしたが、内側(首の中央側)に向けての注入はしていない。また、順次針を引き戻しては方向を変えて薬液の注入を繰り返したもので、針を引き戻す前と同じ深さあるいはそれ以上深く刺入することはしていない。したがって、注射針が、髄腔内や椎弓間孔、椎間孔に入ることはなく、くも膜下腔に薬液を注入することはありえない。

2  被告の過失の有無

(原告らの主張)

(一) 治療方法の選択の過失

被告は、亡夏子に対し、後頭神経に対する麻酔を企図したのであれば、より危険性の少ない後頭神経ブロック法(後頭部の上頂線上の外後頭隆起の中心線から2.5センチメートルほど外側を刺入点として、皮下を走る後頭神経に対して麻酔を行う手法)を選択すべきであったのに、深頸部に対する局所浸潤麻酔という危険な手技を選択した点において過失がある。

(二) 本件注射の施術上の過失

被告は、局部浸潤麻酔を企図したのであれば、① 深頸部に針先が到達しうる四五ミリメートル長の注射針を用いず、二〇ないし二五ミリメートル程度の注射針を用いるべきであったのに、危険な四五ミリメートル長の注射針を使用したこと、② 針先が深頸部に達する手技の危険性に対する正当な考慮をせず、漫然と椎弓板あるいは前突起に当てる手技を用いたこと、③椎弓板に針を当てる手技を用いるのであれば、少なくとも針のシャフトにマーカーを付け、椎弓板までの深さをマークすることにより、その後の刺入時にはそのマーカー以上には深く刺入されないようにする注意が必要であったのにこれを怠ったこと、これら注意義務を怠った過失がある。

(三) 救命措置上の過失

亡夏子の症状の原因がキシロカインのくも膜下腔流入による脊髄、脳幹麻痺であるか、アナフィラキシーショックであるかのいかんに関わらず、その症状に対してはエピネフリンの投与が必要欠くべからざる処置であるにもかかわらず、被告には、エピネフリンを投与しなかった過失がある。

また、被告には、① アンビューバッグ、エアウェイによる人工呼吸では肺への空気の入りが不十分であったから、口対口による人工呼吸をすべきであるのにこれをしなかったこと、② 本件のような浸潤麻酔注射をするに際しては救命用の気管内挿管の器具を事前に準備しておくべきであったのにこれをしていなかったこと、③ 亡夏子の呼吸が停止し、血圧が危険なレベルまで低下し、あるいは心停止した状態においては、被告は人工呼吸、心マッサージによる心肺蘇生に専念すべきであったのに、五分から一〇分をかけて自ら済生会病院に電話をしており、その間、人工呼吸と心マッサージの手を抜いたこと、④ 呼吸不全による低酸素症は急激な心循環系の機能不全と脳細胞の不可逆的損傷を起こすので酸素投与は可及的すみやかに行わねばならず、医院に酸素吸入設備があったにもかかわらず、亡夏子に酸素を吸入させなかったことなど、呼吸停止、心停止をきたした亡夏子に対して、適切な救命措置をしなかった過失がある。

3  原告らに生じた損害の額

(原告らの主張)

(一) 逸失利益

二一五六万九六三三円

亡夏子は、本件事故当時五八歳八か月であったが、主婦として健康に家事労働に従事していた。高年齢者については、年齢に平均余命年数の二分の一を加えた年齢をもって就労可能年数とする考え方に基づき、亡夏子は、七二歳までの一四年間就労可能とみることができるから、平成三年賃金センサスの産業計、企業規模計、学歴計、女子労働者平均賃金二九六万〇三〇〇円を基礎に、生活費割合を三割と見て、一四年に対応する新ホフマン係数を用いて中間利息を控除し、左記の式により計算すると、その逸失利益は二一五六万九六三三円となる。

2,960,300円×(1−0.3)×10.409=21,569,633円

(二) 慰謝料 三〇〇〇万円

亡夏子は、何らの落ち度もなく命を失ったものであり、その無念さは察するに余りあり、本人及び家族の被った精神的損害は到底金銭で慰謝されるものではないが、仮に金銭に評価するとすれば三〇〇〇万円を下ることはない。

(三) 弁護士費用 八〇〇万円

本件事案の困難性に鑑み、原告らは、弁護士三名を代理人に立てて本訴遂行を余儀なくされた。その弁護士費用は総額で八〇〇万円を下ることはない。

第三  証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第四  争点に対する判断

一  前記争いのない事実並びに甲六、七の1、2、八、九、一一、一二、一四の1、2、乙一、五、六、九、一〇、鑑定の結果、証人小川節郎の証言、被告本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。

1  被告医院は、医師一名(被告のみ)、正看護婦二名、准看護婦四名(すべてパート制)、事務員五名(パート交替制)、ベッド数七床の内科、胃腸器科、循環器科の看板を掲げる医師である(乙五)。

2  亡夏子は、平成二年九月三日、被告医院において、初めて受診し、右坐骨神経痛、腰痛症の診断を受けた。この受診時に、亡夏子は、診療申込書の問診表に、これまでに薬や注射で異常のあったことはない旨回答して、被告に提出した。

3  亡夏子は、その後平成三年七月二九日までの間に、被告医院において九回受診し、感冒、慢性胃腸炎、肩関節周囲炎(左)、急性上気道炎、アレルギー性鼻炎の診断を受けている(乙一、五)。亡夏子は、同年三月二五日の受診時には、左肩と肩関節の凝りと痛み及び左上前腕のしびれ感を訴えたが、診察の結果片側神経障害はなく、深部知覚反射の異常もなかったので、被告は、消炎鎮痛剤とその座薬、ローション、湿布等を処方した。また、同年五月一三日にも、亡夏子は、左肩の凝り等右と同様の症状を訴えて被告医院に来院し、被告は、消炎鎮痛剤等右同様の処方投与をしたところ、亡夏子は、その後左肩の凝りを訴えて来院することはなかった。

4  七月二九日の診察、治療とその後の経緯

(一) 同年七月二九日、亡夏子は、被告医院に午後五時三〇分ころ来院した。被告が問診したところ、亡夏子は、感冒様の症状はないし、発熱もないと答え、右側頸部から下後頭部にかけての痛み、凝り、膝関節痛(特に左側で、変形あり)を訴えた。亡夏子は、前日、他の整骨院に行って加療してもらったが改善しないので被告医院に来院したとのことであった。被告は、診察及び問診の結果、大後頭部神経痛、頸椎症、変形性膝関節症と診断した。そこで、被告は、「どうしても良くならないのなら、又、うずく程痛いのなら、局所麻酔的で一時的ですが局所注射という方法はありますが、どうされますか。今も他にも何人か同様の注射を継続して行っている患者さんもおられますが。」と言ったところ、亡夏子は、それに対し、「それで良くなるなら一度してもらいましょうかね。」と局所注射を行うことに同意した。

(二) そこで、被告は、午後五時四〇分ころから、常勤している看護婦一名の介助の下、一パーセントキシロカイン(局所麻酔薬)五ミリリットル、ノイロトロピン特号(抗アレルギー剤)三ミリリットル、ヌトラーゼ(ビタミン剤)二〇ミリグラムの混合液約九ミリリットルを、亡夏子の首筋に注入する局所注射を施行した。この時、被告医院には、被告及び右看護婦以外に医師、看護婦等の医療従事者はいなかった。

被告は、亡夏子を椅子に腰かけさせて、背後に座り、亡夏子に頭を前にかがめて頸部を突き出すような姿勢をとらせ、首筋のおおよそ第四から第六頸椎の間くらいの高さでその右外側約2.5センチメートルの部位に、注射針を刺入した(被告本人尋問の結果・第一回)。

被告が最初に注射針を刺入した時、亡夏子は、「痛い」と言い、その声は被告医院の待合室にいた他の患者にも聞こえた(甲一一)。被告は、この痛みは注射針が骨、すなわち頸椎横突起に当たったためであると考え、その位置から注射針を二、三ミリメートル引抜いたところで約一ミリリットルの薬液を注入し、そこで針の方向を変え、血液の逆流の有無を確認しながら、針を上下に向けたり、横に向けたりしながら、適当と思われる部位に、大体五、六回に分けて注射液を浸潤させていった。注射針は、二三ゲージ長さ約五センチメートルのものが使用され、注射は、約三分ないし四分かけて行われた。

被告は、体内に入っている針の長さを測定していなかったが、最初に刺入したときに針は手元に一ないし1.5センチメートルは余っていたという印象であった(乙一〇)。

被告は、注射中、何回も薬液の注入を中断した上、「気分悪くはないか。フーとしませんか。」と亡夏子に問いかけたが、亡夏子から何の訴えもなかった。

被告は、注射後、薬液をしみわたらせるために、アルコールをしみこませた綿で、注射した部位あたりを揉んだ。

(三) 注射終了後二、三分して、亡夏子は、右肩、右上腕のしびれを訴え、すぐそばのベッドにまで歩いて行き、横になった。被告は、すぐに血管確保をして点滴を始めた。その時の血圧値は、上が二一〇、下が一二〇であったが(亡夏子の血圧通常値は、上が一四〇台、下が八〇台)、亡夏子は顔面蒼白となり、頻回に血圧を測っているうちに、血圧は、上の値が一七〇ないし一八〇、一二〇、一〇〇と、急速に降下した。被告は、血圧の上の値が一一〇から一二〇の時点で、抗ショック剤のステロイドホルモンのソルメドロール(二五〇ミリグラム)一バイアルを測注(静脈注射)し、エチホール(昇圧剤)一アンプルを測注、同二アンプルを点滴内に追加したが、その後も血圧は低下した(甲九、乙一)。

亡夏子は、右施術中「右手がしびれる。気分が悪い。苦しい。」と訴えながら、次第に呼吸が弱くなっていったが、被告が胸の聴診をしたところ、特に雑音はなかった(被告本人尋問・第二回)。

亡夏子の意識状態は急速に悪化し、そのうち呼吸が停止し、その後心臓の動きも止まった。被告は、ソルメドロール二バイアルを追加測注、呼吸促進剤テラプチク一ないし二アンプル、メイロン(二〇ミリグラム)一アンプルを測注し、アンビューバッグ(人工呼吸用のエアバッグ)エアウェイを挿入して人工呼吸をし、エホチール、アミノフィリンを測注し、被告及び看護婦で交互に心マッサージをした。また、被告は、看護婦に救命措置をとらせながら、済生会病院内科に電話で救急搬入依頼をし、病状説明をして、搬入承諾を得た上、午後五時五九分に、電話で救急隊に救急要請をした。これら電話に要した時間は五分から一〇分であった。救急車は午後六時四分に被告医院に到着し、亡夏子は、午後六時一二分に被告医院を出発し、午後六時一四分に、済生会病院に到着した(甲一四の1、2)。

(四) 済生会病院到着時、亡夏子は、心臓及び呼吸は停止し、瞳孔は散大し、チアノーゼが認められたので、直ちに、同病院で、気管内挿管、人工呼吸器装着、心マッサージ等の処置がとられ、午後七時五〇分には、弱く浅いながらも自発呼吸が見られたが、亡夏子の脳幹部にはすでに損傷が生じており、植物状態が続いた上、同年八月二〇日午後一一時四六分、急性全身性循環不全症を直接死因として死亡した。

なお、済生会病院においては、亡夏子に対し、同年七月二九日午後八時二五分に、キシロカインが(甲七の1、二枚目)、同年七月及び八月に、キシロカインゼリーが(甲六診療報酬明細書)使用されている。

二  争点1(亡夏子の心肺停止の原因)について

1  本件注射の手技とくも膜下腔への薬液注入の可能性

(一) 前記争いのない事実、第四項一で認定した事実並びに甲四、五、乙九、鑑定の結果、証人小川節郎の証言、被告本人尋問の結果を併せ考慮すれば、以下の(二)から(四)の理由により、本件注射の手技において、注射針が椎弓間孔を通ってくも膜下腔内に刺入され、その部位において薬液の一部が注入された可能性、及び、注射針が右頸椎の椎間孔に至り、その部において神経鞘内に注射針が刺入され、その部位から薬液が注入された可能性が認められる。

(二) まず、被告が最初に注射針を刺入し、亡夏子が「痛い」と言った時、注射針は頸椎の椎弓板に当たったのではなく、頸椎の横突起の前結節に当たっていた可能性が認められる。被告は約五センチメートルの長さの注射針を使用しており、体内に入っている針の長さを測定せず、よく見てもいなかったが(被告本人尋問・第一回)、被告の記憶によれば手元に余っていた針の長さは一ないし1.5センチメートルという印象であったこと(乙一〇)、神経ブロックを行う場合、普通の体格であれば二センチメートル針を刺入すれば横突起に直接当たるとされていること(鑑定書の別添資料1)に加えて、鑑定書添付の写真4、5、6等から認められる頸椎各部の位置関係を考えれば、注射針が椎弓板や横突起の後結節に当たることなく、横突起の前結節に当たることはあり得るといえ、注射針が刺入されたときに、亡夏子が大きな声で「痛い」と叫んだのは、椎間孔近くにある深頸神経叢を形成する神経の一本に当たったと考えられ(鑑定書七頁)、被告が最初に注射針を刺したときに前結節に当った可能性が認められる。このとき、被告は、注射中に血液や髄液の逆入がないかどうかを確かめたところ、逆入が認められなかったと供述しており(被告本人尋問・第一回)、これは、針が神経鞘内に刺さった場合には、血液や髄液の逆流が認められないのが通常であることと符合する(鑑定書九頁)。

この場合には、針先は神経根を通り過ぎ、その前方まで刺入されていたのであるから、その後、針を引き抜きながら薬液を注入したとしても、その一部が神経鞘内に注入された可能性がある。

(三) 次に被告が最初に注射針を刺入した際に注射針が頸椎の椎弓板に当たり、この後、注射針の方向を変えて刺入した際に、針が内側(首の中央側)に向いて刺入され、椎弓間孔から髄腔内に針が到達した可能性、あるいは、針が外側に向いて刺入され、椎間孔内に到達し、その部を走行する脊髄神経根を穿刺した可能性も認められる(鑑定書二一頁以下、甲四、五)。

この点、被告は、「注射針が椎弓板に当たり針を引き戻して後は、針先の方向を変えるのみで、針を刺し込むことはしていないから、注射針が、椎弓間孔や椎間孔に入ることはありえない。」と主張する。

確かに、証人小川節郎及び被告本人が供述するところによれば、針先を固定して手元で注射器を動かしたとしても、針先は入った筋肉の組織に留まり、針先の位置は変わらないはずである。しかし、被告は、枝分かれして分布する神経に作用を及ぼすため、いろいろな深さ、位置に薬液を浸潤させようと、針先の向きを変えて約九ミリリットルの薬液を注入したというのであり(被告本人尋問・第一回)、針先の位置を固定させていたのでは、注射器を動かして向きを変える操作をしても、被告の右目的は果たせない。被告の注射器操作の意図、目的や使用した薬液の量からすれば、針を一旦引き戻し針先の方向を変えた後、刺し込む操作があったと見るのが合理的である。また、被告は、本人尋問(第一回)において、注射針の刺入方向、部位を図示しているが、刺し込む操作がなければ、その図に記載された部位に注射針を刺入することができないのは明らかである上、被告自身、本人尋問において、「押し入れるということは、意識してはしませんけど、ある程度の深さのずれはあると思う。」旨も供述しているのであって、被告が注射針刺入後刺し込む操作を全くしなかったとは認めがたい。

また、証人小川節郎の証言によれば、稚弓板に当たるほどの深さに注射針を入れた場合、たとえその後の刺入されている針の深さが、椎弓板に当たった時点の深さよりも浅いものであったとしても、針が内側に向いていれば、椎弓間孔から髄腔内に針が到達する可能性があるし、外側に向いていれば、椎間孔内に針が到達する可能性があるというのであり、たとえ、被告が、陳述書(乙一〇)で供述するとおり、引き抜いた分と同じだけの深さで針を刺入するようなことがなかったとしても、髄腔内や椎間孔に針が到達した可能性はあったといわなければならない。

なお、証人小川節郎の証言によれば、「針が髄腔内に完全に入っているわけではなく硬膜のところにひっかかっているような場合においては、注射器には脊髄液は吸引されないが、注射液が髄腔内に注入されることはありえる。」というのであって、本件注射の際に、髄液等の吸引が認められなかったことをもって、注射液が髄腔内に注入された可能性が否定されるものではない。

(四) また、第四項一4(三)で認定した亡夏子の容態の急変は、本件注射の薬液が神経鞘あるいはくも膜下腔に注入された場合に生じると考えられる症状と符合している(鑑定書一二頁以下)。すなわち、本件注射の薬液がくも膜下腔あるいは神経鞘に注入されて、くも膜下腔へ流入して脳脊髄液に混入し、キシロカインがまず最初に右第四、第五神経に作用して右肩のしびれを出現させ、さらに頭側に拡散して、横隔膜神経を麻痺させ、さらに意識の維持に寄与する脳幹部で、かつ、呼吸、循環中枢のある延髄を麻痺させたとして、亡夏子に生じた症状を、時間的経過も含めて合理的に説明することができる。本件注射においては、全量九ミリリットルの薬液中、一パーセントキシロカインが五ミリリットル含まれており(その濃度は約0.56パーセント)、この薬液九ミリリットルを五、六回に分けて全量注入しており、薬液の濃度及び一回あたりの注入量に照らしても、キシロカインによる症状と考えることに問題はない(鑑定書一三頁)。

2  アナフィラキシーショックの可能性

(一) アナフィラキシーショックとは、「過敏性のあるヒトに、対応するアレルゲンが注射、摂取、接触、刺傷などで体内に入ると、ほとんど直後に、全身のじん麻疹、血管浮腫、呼吸困難、動悸などが起き、時に血圧低下、窒息、意識障害などのショック症状を起こし、稀に、死に至ることがあるもの」(乙二)、「外来性物質の侵入によってマスト細胞や好塩基球からヒスタミンやロイコトリエンC、D、E等の化学伝達物質や種々の酵素が遊離されて、全身に影響が及ぶが、特に循環系、呼吸系の重篤な障害のために生ずる致命的な症状」(乙三)などといわれるものであり、被告の用いた薬液のうちキシロカイン、ノイロトロピン及びヌトラーゼのいずれもが、アナフィラキシーショック発生の原因となりうる物質である(鑑定の結果及び証人小川節郎の証言、甲一六、乙三)。

しかし、前記争いのない事実及び前記第四項一で認定した事実、甲六、七の1、一三、一五、一六、乙一、二、三、四、七の1、2、3、鑑定の結果、証人小川節郎の証言、被告本人尋問の結果を併せ鑑みれば、以下の事実が認められ、これらによれば、亡夏子が心肺停止に陥った原因が、アナフィラキシーショックにあるとは認めがたい。

(1) 注射を始めてから、亡夏子が「右肩がしびれる。」と言いだすまでに二、三分程度の時間経過があるが、もしこれがアナフィラキシーショックの初期症状であるとすれば、発生したアレルギー反応はいわゆる即時型反応とされるものである。一般に即時型アレルギー反応の初期症状としては、気分の不快、紅斑、じん麻疹様の発疹、粘膜の浮腫等があげられているが、本件においては、これらアナフィラキシー反応で見られるはずの諸初期症状が全く認められていない(鑑定書二頁)。

(2) アナフィラキシー反応における呼吸不全は、肥満細胞から遊離された化学伝達物質による気道粘膜の浮腫が原因であるので、肺野の聴診、呼吸運動の状態、声門の狭窄症状のうち、少なくともひとつは出現しているはずであり(鑑定書二頁)、アナフィラキシーショックにおいては、気道粘膜の浮腫によらない呼吸不全が発生するということは考えられず(鑑定書三頁)、呼吸音の異常も顕著に現れる。しかし、被告は本人尋問において、亡夏子の胸の聴診をしたが特に雑音はなかったと供述しており、済生会病院においても、亡夏子の呼吸音に喘鳴、気道の狭窄音が聴取されたという記録をしていない。むしろ、済生会病院の新入院記録(甲七の1、六丁目)には、「病的雑音なし」との記載があり、また七月二九日の同病院の診療録(甲七の1、二丁目)には「ガス分析」の記載があり、その結果を見ると肺におけるガス交換は正常であることが認められるから、亡夏子には呼吸音等の異常がなかったと推認できる。

(3) アナフィラキシー反応による血圧低下の機序は、肥満細胞から遊離された化学伝達物質すなわちヒスタミン、ロイコトリエン、ブラヂキンなどによる血管透過性の亢進が起き、血漿の血管外漏出から循環血漿量の減少を起こすことが主因である。すなわち、血管の透過性が亢進したことによる皮膚や粘膜の浮腫が、血圧低下と同時に起こるか、あるいは先行するはずである。しかし、被告医院においても、済生会病院の診療録においても、血管透過性の亢進を示す症状(発赤、粘膜の浮腫等)が出現していたことを示す記録はなく、亡夏子に認められた血圧の急速な低下が、アナフィラキシー反応の一反応とは考えにくい(鑑定書五頁)。

(4) 済生会病院においても、亡夏子に対し、キシロカインが用いられているが(前記第四項、一4(四))、同病院において、亡夏子にキシロカイン使用によるアナフィラキシー反応があったことは認められず、キシロカインを原因物質とするアナフィラキシーショックが、亡夏子の心肺停止等の原因であるとは認められない。

(二) なお、被告は、「亡夏子の診断、治療に直接携わった済生会病院の医師が、アナフィラキシーショックであるとの診断をし、その診断に基づいて治療をしているのであるから、亡夏子に、アナフィラキシーショックが発生したと認定するのが相当である。」と主張する。

本件注射の目的とするところは、大後頭神経等の特定の神経を狙ってブロック(麻酔)することではなく、亡夏子が凝り及び痛みを訴えている部位の筋肉内に薬液を浸潤させて痛みを緩和するいわゆる局所伝達浸潤麻酔を行うことにあったものと認められる。キシロカイン等の局所麻酔薬やノイロトロピン、ビタミン剤を混ぜて、緊張と凝りのため痛みを起こしている筋肉内へ注射すること自体は、ペインクリニックにおいても、一般医においても頻用される施術であって(鑑定書二〇頁)、亡夏子の肩凝り等の症状に対する対処療法として、被告が筋肉内への局所伝達浸潤麻酔注射を行おうとしたこと自体には過失はない。また、右のとおり、被告は、大後頭神経の麻酔を目的にして本件注射を行ったわけではないから、後頭神経ブロック法を選択しなかったことにも過失はない。

2  本件注射の施術上の過失

前記二で認定したとおり、本件注射において、注射針が神経鞘あるいはくも膜下腔内に刺入され、薬液がくも膜下腔に入ってしまったために、亡夏子は、呼吸不全、心臓停止等の状態に陥ってしまったものである。

そもそも、深頸部への神経ブロック時に針が神経鞘内に穿刺され、局所麻酔薬が硬膜外やくも膜下に流下して、いわゆる全脊椎麻酔状態(呼吸停止、意識消失など)になったという症例は稀ではなく報告されており(鑑定書六頁、同添付文献1、2)、神経ブロック時に誤って脳脊髄液中に局所麻酔薬が注入されることは、鑑定人である証人小川節郎自身も月に一度くらいは経験すると証言している上、鑑定書添付の文献1、3、別添資料1等を見ても、これが深部頸神経叢ブロック(第二、第三、第四頸椎横突起にブロック針を当てて局所麻酔剤を浸潤させる手技)や星状神経節ブロック(第七頸椎横突起にブロック針を当てて局所麻酔剤を浸潤させる手技)における、代表的な合併症であることが認められる。

本件注射における被告の手技は、被告自身は、神経ブロックを意図したわけではなく、筋肉内に伝達浸潤麻酔をすることを意図していたとはいえ、手技の客観的な態様は、約五センチメートルもの長さの注射針を用い、第四あるいは第五頸椎の横突起あるいは椎弓板の深さまで注射針を刺入し、若干針を引き戻してから方向を変えて薬液を注入するというものであって、髄腔等が近くに位置するなど解剖学的に複雑な部位である深頸部に局所麻酔薬を注入するという点では、深部頸神経叢ブロックや星状神経節ブロックと同様の合併症発生の危険を伴うものであったといわざるをえない。このような深頸部への局所麻酔注射においては、麻酔注射の手技に熟練していると思われる麻酔科専門医が、危険性の少ないとされている手法を用いて注射を行っても、時として誤ってくも膜下腔等に注射液を注入してしまうことがあるというのであるから、内科を主たる専門とし、ペインクリニックの技術を特に習得したわけでもない被告が、このような部位に注射を行えば、何かの拍子にわずかに針先がずれるなどして、針が神経鞘やくも膜下腔等に刺入される事態が生じることは当然予想されるところである。

しかも、ペインクリニックの解説書では、深部頸神経叢ブロックを施行するにあたっては、3.2センチメートルの針を使用することとされており、吸引テストを行って何も吸引されない場合にも、くも膜下ブロック(くも膜下腔への麻酔薬の流入)が起こることがあり、くも膜下ブロックを防止するには「針をむやみに深く刺入しないこと、針の刺入方向にも注意して頭側に向けないこと」に注意しなければならないとされている(鑑定書別添資料1)。また、くも膜下等に局所麻酔薬が流入して、意識消失、呼吸停止等の状態になったとしても、直ちに人工呼吸、酸素投与、血圧の維持等の適切な救命措置を行えば、時間の経過とともに局所麻酔薬の作用は消失し、後遺症もなく元通りに回復することが可能であるが(証人小川節郎の証言、鑑定書二九頁以下、鑑定書添付文献2、4)、直後に適切な救命措置が取られなかった場合には、脳細胞が酸素不足により壊死するなどして、植物状態や死亡につながる危険性がある。

以上からすれば、被告には、伝達浸潤麻酔注射を行うに際して、治療上の必要性、自己の麻酔注射の技量、万が一合併症が生じた場合に適切な救命措置を行えるだけの体制が自己の医院において整っているか等を考慮した上、できるだけ全脊椎麻酔等の合併症が発生する危険性の少ない手法を用いるべき診療契約上の注意義務があったというべきである。

しかるに、被告は、深頸部にある特定の神経を狙ってブロック注射をしようとしていたわけではなく、単に筋肉内に浸潤麻酔をしようとしていただけであって、椎弓板や横突起に当たるほどの深さまで針を刺さなければいけない特段の治療上の必要はなかったにもかかわらず、約五センチメートルもの長さの注射針を用い、頸椎の椎弓板あるいは前突起に当たる深さまで針を刺入するという危険性の高い手技を用いたものであって、そのために、神経鞘内に薬液を注入し、あるいは髄腔内に到達した針から薬液を注入して、くも膜下腔に薬液を流入させたことによって全脊椎麻酔状態を引き起こしたのであるから、右注意義務に反する過失があったといわざるをえない。

なお、右認定事実の下においては、被告が本件注射を行うに当たって、最初に注射針を刺入した時に、前結節に当てたのか、あるいは椎弓板に当てたのかが明らかでなく、薬液がくも膜下腔に流入した原因についても、神経鞘内に達した注射針から注入した可能性と椎間孔内に刺入された注射針から注入されてクモ膜下腔に達した可能性があり、被告が行った手技を明確に特定することはできないといわざるをえない。しかし、被告の行った手技が右のいずれであったとしても、本件注射においては全脊椎麻酔を生じさせる危険性の高い手技を行った過失があったといえ、伝達浸潤麻酔注射を行うに当たっての過失として特定できたものと考えるのが相当である。

また、被告の本件注射を行う際の過失によって、亡夏子を全脊椎麻酔の状態、すなわち意識消失、呼吸停止に陥らせ、被告医院での応急処置や済生会病院での治療にもかかわらず、植物状態から死亡させるに至ったのであり、被告に後記の救命措置上の過失がなかったとしても、亡夏子が当然に救命されたとはいえないことからしても、右施術上の過失と亡夏子の死亡には因果関係があると認められる。

3  救命措置上の過失

さらに、亡夏子が心肺停止に陥った原因が、仮にアナフィラキシーショックであったにせよ、前記認定のとおり施術上の過失によるものであったにせよ、被告には、亡夏子の意識消失、呼吸停止直後の低酸素血症、心循環機能低下に対する救命措置上の過失があったというべきである。

すなわち、鑑定の結果及び証人小川節郎の証言によれば、① 呼吸停止後の心停止、循環の虚脱に対しては、心臓のβアドレナージック受容体刺激薬であるエピネフリン(アドレナリン)の投与は必要欠くべからざる処置であり、心蘇生及びその後の心臓収縮力の増強、血圧の維持において必須の薬剤であること、また、エピネフリンは、肥満細胞からの化学伝達物質の遊離を抑制する効用がある上、それら化学伝達物質により誘発される心循環系の虚脱に対して有効なので、アナフィラキシーショックの治療にも同薬の投与は必須であること、エピネフリンは必須の緊急救命用薬剤の一つであって、個人病院であっても常備されているのが通常であること、② 呼吸不全による低酸素血症は急激な心循環系の機能不全と脳細胞の不可逆的損傷を招くので、アンビューバッグによる人工呼吸が十分に効を奏しない場合には、直ちに口対口人工呼吸、あるいは気管支内挿管等による気道確保による人工呼吸、酸素吸入等の措置に移行しなければならないこと、③ 心肺停止状態の患者に対し、心マッサージ及び人工呼吸を中断してはいけないこと(以上につき、鑑定書二九頁以下)が認められる。

しかし、甲九、乙一、五、一〇、被告本人尋問の結果によれば、① 被告は、エピネフリンを投与しなかったこと、② アンビューバッグによる人工呼吸では、肺の中に十分には空気が入っていなかったにもかかわらず、口対口人工呼吸など低酸素血症を防止するための他に取りうる措置を試みなかったこと、③ 被告が済生会病院に電話をかけていた五分ないし一〇分の間、看護婦一人のみが救命措置に従事することとなり、心マッサージか人工呼吸のいずれかが中断したことが認められる。

もっとも、被告は、第五回口頭弁論の本人尋問の反対尋問中及びその後提出された陳述書(乙一〇)において、エピネフリンは被告医院に常備しておらず投与しなかったものの、エピネフリンと同様の効果のあるノルエピネフリンは投与しており、診療録等に記載がないのは書きもらしたにすぎないと供述している。しかし、その供述するところによれば、被告には、同薬を投与したはっきりとした記憶があるわけではなく、常備している救急薬であり、救急時には常に投与する癖が被告にはついているから、本件においても反射的に投与しているにちがいないというに過ぎない上、診療録(乙一)、被告作成の陳述書(乙五)、医療費医療手当診断書(甲九)のいずれにおいても、亡夏子に投与した薬剤の種類、量、投与時期などが具体的かつ詳細に記載されているにもかかわらず、ノルエピネフリンの記載がされていないこと、ノルエピネフリンについて診療報酬請求をしていないこと(被告本人尋問の結果)、ノルエピネフリンを投与したのであれば確実に数十ミリメートルの血圧の上昇が見られるはずであるのに、診療録の記載や被告の供述からはこのような血圧値の上昇があったことが窺われないことなどからすれば、被告が亡夏子に対しノルエピネフリンを投与したとは認めがたい。

右認定事実に鑑定の結果を考え合わせると、被告医院が人的物的設備の十分でない個人病院であることを考慮しても、被告には取りうる救命措置を十分に行わなかった過失があったといわざるをえない。

また、亡夏子の呼吸停止直後に適切な救命措置がとられていた場合には、血圧の維持等による体全体への血液循環及び酸素供与が行われ、脳細胞が壊死することなく、神経ブロック術に際して患者に全脊椎麻酔症状が発生した症例の多くの場合と同様に、局所麻酔の作用が消失するにつれ、数時間で元どおりに回復した可能性があるから、右救命措置上の過失と亡夏子の死亡の間にも、因果関係が認められる。

四  争点3(原告らに生じた損害)について

1  逸失利益

一二九二万七〇三八円

亡夏子は、前記争いのない事実1記載のとおり、死亡当時五八歳であり、それまで主婦として家事労働に従事していた。

これを前提とすれば、亡夏子は六七歳までの九年間就労可能と見ることができ、「賃金センサス」平成三年第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計の女子労働者の全年齢平均の賃金額を基礎とし、生活費割合を四割とし、新ホフマン方式により中間利息を控除して算出すると、亡夏子の逸失利益は、次のとおり、一二九二万七〇三八円となる。

2,960,300円×(1−0.4)×7.278=12,927,038円

2  慰謝料 二〇〇〇万円

本件注射の経緯、亡夏子の注射前の状況、死亡時の年齢、生活状況等、本件の一切の事情を考慮すると、亡夏子の受けた精神的損害に対する慰謝料としては、二〇〇〇万円をもって相当と認める。

3  原告甲山太郎は、亡夏子の配偶者であるから、同人の死亡により右1、2の損害の二分の一を相続し、原告甲山一夫、同甲村春子は、いずれも亡夏子の子であるから、同人の死亡によりその四分の一ずつ相続したものと認める。

4  弁護士費用 合計六〇〇万円

原告らが本件訴訟の代理人を委任したことは当裁判所に顕著な事実であり、弁護士費用としては、原告甲山太郎については、三〇〇万円を、同甲山一夫及び同甲村春子については、それぞれ一五〇万円を相当と認める。

5  なお、原告らは、債務不履行に基づく損害賠償請求として本件請求を行い、右請求に附帯して、亡夏子死亡の日の翌日である平成三年八月二一日以降の遅延損害金の支払いを請求している。ところで、債務不履行に基づく損害賠償債務は期限の定めのない債務であり、民法四一二条三項によりその債務者は債権者の履行請求を受けた時にはじめて遅滞に陥るものというべきところ、本件においては、訴状が平成五年五月一八日に被告に送達されたことが記録上明らかであるから、被告は、右訴状送達の翌日以降原告ら請求の損害賠償債務について遅滞に陥ったものと認められる。したがって、遅延損害金の支払いを求める原告らの請求中、右遅滞の生じた日以前の分については理由がなく、訴状送達の日の翌日である平成五年五月一九日以降支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるというべきである。

五  結論

以上の事実によれば、原告らの請求は、原告甲山太郎に対し、金一九四六万三五一九円、同甲山一夫、同甲村春子に対し、それぞれ金九七三万一七六〇円及びこれらに対する訴状送達の日の翌日である平成五年五月一九日以降支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鏑木重明 裁判官森木田邦裕 裁判官山下美和子)

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